印相
先日永井理事長からお釈迦様の像の印相について質問がありました とても重要な質問だと思いますので そのことについて今日はお話をします
印相は 仏像にとってとても大切なものです 何故だかわかりますか?それは 今生きている人は誰も仏様に会ったことがないからです 誰も仏様がどのようなお顔をしておられたのか知りません ですから 仏像のお顔を見ただけでは どの仏様なのかわからないのです このご本尊を見て下さい お二人の仏様がお座りになっておられますが そのお顔だけを見比べてどちらがお釈迦様か判りますか?向って左側がお釈迦様で 右側は多宝如来という仏様です このお二人の仏様の違いをお顔を見ただけでいえますか?どこがどのように違うのか見て下さい わかりましたか?実はこの2つの仏像のお顔は全く一緒です 違いはありません ですから お顔を見ただけではなかなか判断がつかないのです お隣の鬼子母神様のように特徴的なお像の場合は お顔を見たがけでわかります しかし 多くの仏像は お顔だけでは判断がつきません では何で判断すればよいのか その判断の基準と成るものの一つが印相なのです 逆に印相を見ることによって この仏像がどの仏様なのかある程度判断できます 印相の他に仏像を判断する基準となるものは 例えば 衣の形 衣についている紋章 宝冠などの装飾品 手に持っているもの 背中にある光背 そしてその仏像が乗っている台等によって判断されます
さて 印相に話を戻します 一口に印相といっても多くの種類があり 代表的なものだけ上げても12あります 皆さんの目の前にある お釈迦様と多宝如来は合掌をしておられます 先日お話しましたように 合掌には非暴力 信仰 祈りといった意味があります その前にある日蓮聖人のお像については後日改めてお話しますので 今日はしません 皆さんから見て右隣には納骨堂がありますが そこにも仏像がお祀りされています 同じお釈迦様と多宝如来ですが 印相は違います 後でご自分で確認して欲しいのですが お釈迦様は法界定印 多宝如来は説法印をされています 法界定印とは 私たちが唱題行の瞑想の時に行う印で 手のひらを重ねて両方の親指をつける形です この印の意味は 瞑想をしているという姿で 実はお釈迦様が悟りを開かれた姿といわれています 真実を悟られた様子なのです 多宝如来の説法印は 胸の前に両手を上げ 手の丸を作っています その時中指は他の指より少しだけ曲げています 手で丸を作るということは 法輪を示しているといわれ 転法輪 つまり法を説く様子を表したものなのです 法華経の中で多宝如来が法を説くというと不思議な気がするかもしれません 私たちがよく唱える法華経の文句に次のようなものがあります
「善哉 善哉 釈迦牟尼世尊 能く平等大慧教菩薩法仏所護念の妙法華経を以って大衆の為に説きたもう 是の如し 是の如し 釈迦牟尼世尊所説の如きは皆是れ真実なり 」これは 多宝如来のお言葉で お釈迦様の教えが真実であることを証明する時のものです これは法華経の中でとても重要な言葉なのですが お釈迦様以外の方も法華経でいろいろ発言されることを覚えて置いて下さい
本堂の仏像と納骨堂の仏像を比べて 同じ仏様であっても印相が違う場合があることがわかりました これ以外にも お釈迦様と多宝如来がお二人とも法界定印をされているお像もまた一般的です ですから お二人とも合掌されているもの お二人とも法界定印をされているもの そしてお釈迦様が法界定印で多宝如来が説法印を示されているものの3つのパターンが日蓮宗では最も多く見られる形です
さて 印相に関してどうしても皆さんのお話したいことがあります それは お釈迦様と多宝如来が合掌しているお像は日蓮宗では一般的とお話しました 実はこれは他の宗派では見られない日蓮宗独自の形なのです 他の仏教では お釈迦様が合掌している像はなく それはありえないことなのです 何故ありえないのでしょうか それは 合掌は信仰の形 祈りの形とお話しました もし信仰の形であれば 悟りを得た筈のお釈迦様はこの上何を誰を信仰するのでしょうか?もし 祈りの形であれば お釈迦様はこの上何を祈るのでしょうか?祈るということは 何か叶えたい願望があるということです 例えば 病気から回復したいとか 悟りをえたいとか願いがあるのです だから祈るのです ですから 祈るということは 実はその心に欲望があるということを示しているのです しかし お釈迦様は 欲望を超越され 悟りをえられた方です 欲望があるはずがありません その意味で お釈迦様が合掌している像はありえないことなのです その有り得ない筈の合掌をしたお釈迦様が日蓮宗では一般的であるということはどういうことでしょうか 日蓮宗は間違った解釈をしているということでしょうか 実は 悟りを得たお釈迦様にも願いがあるのです 悟りをえたお釈迦様だからこその願いがあるのです それは 法華経に説かれています 一例を挙げれば 今日皆で読みました如来寿量品第16の最後文章です 「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして無上道に入り 速やかに佛身を成就することを得せしめんと」私たち凡夫を救うという願い これだけが悟られた仏様の願いなのです 願いというよりは 慈悲というべきでしょう ですから この本堂にお祀りされているお釈迦様は 常識はずれかもしれませんが 衆生を救うという慈悲を表された私たちにとってはとても有り難いお像なのです
お寺の仏像というと 何か静止した古いもののように見えるかもしれませんが 実は私たちの為に慈悲深い行動する能動的なものなのです 何故仏像がお寺の中心にお祀りされているのか 信仰感謝の対象であるのか そのことの理由がお分かり頂けたことと思います 尚一層の信仰に励まれることを願っております
2013年9月8日